ウチとソト。



『敬語』の概念を説明するのにうごうごしていたわたしに

フランス語の先生が貸してくれた、

フランス語で書かれた、日本語の教科書。

Reiko Shimamori著

GRAMMAIRE JAPONAISE SYSTEMATIQUE II


辞書をひきひき読んでみると、

興味深い文章が載っていた。


Intérieur(ウチ)とExtérieur(ソト)について書かれた章。

身内と世間、とでも翻訳できるかもしれない。


私たち日本人は、ウチの人同士の関係においては相互に深く理解し合い、

強い絆で結ばれている。

また、グループでは「個人」というよりも「所属コミニュティを構成する一員」という意識が強く、

ウチの人と自分とは、個々に対立する関係ではなく、

信頼し合う親密な間柄、パートナーとも言うべき関係である。


それとは逆に、ソトの人に対しては、

私たちは距離を保ち、敬意を表して接する。

その現れが敬語でもある。

そしてソトの人には自分の本音を見せず、建前を話し、

「私」のテリトリーへの侵入は許さない。



ソトの人に対してウチの人にするのと同じ振舞いをすれば、

それは傲慢だったり無礼だったりするし、

逆にウチの人に対してソトの人にするのと同じように振る舞えば、

冷たい人と言われたり、相手を傷つけたりもする。


このウチとソトの差別意識というのは、ヒエラルキーの差別とは違った概念だ。

ヒエラルキーは概してウチの中にしか存在せず、

ソトの人に対しては、一定の尊敬を払う。

(たとえば会社だったら、社内では役職や先輩後輩などのヒエラルキーがあるけれど、

お客様、クライアントに対してはそのヒエラルキーは中和されて、(なくなって)

一律に敬意を払って接している。

法律事務所だったら、

秘書は所内では弁護士に対し「●●先生」と呼んでいても、

クライアントの前では「●●は不在にしております」「●●に申し伝えます」

といって先生(敬称)はつけない、というように。)

つまり、ヒエラルキーの概念とウチ・ソトの概念は同じ軸上のものではない。



そして、冒頭の図が示しているのは、

日本と西洋における人間関係の概念の違いであり、

「私」のテリトリーの違い。

日本では、「私」とウチとの境界線は曖昧で、乗り越えやすいものだ。

(日本人の、自分の意見を求められるのが苦手で、協調を重んじる気質はまさにそれを指しているとおもう。)

しかし、ウチとソトとの壁はとても厚く、乗り越えるのはとても難しい。

対して西洋的な概念では、

「私」の概念がとても堅固で、身内といえど乗り越えることは出来ない。

けれどもウチとソトの境界線はゆるく、ソトの人も、すぐにウチの人になることが出来る。



というようなことが、書いてあった。




多分。


これって、戦国時代が背景にあったりするのだろうか。

いくつもの「クニ」がひしめき合い、戦う一方で、

クニのなかではお館さま(正しい漢字わからず。。)を頂点に、

強固なヒエラルキーが存在し、

かつ、絆は強く、滅私奉公の基本理念。

まさに戦国の世!とおもってしまったけれど、

歴史に詳しくないので、きっと、戦国時代よりもずっとずっと前からそうだったのだろう。

今の日本では、インターネットやSNSによって、

実際の距離如何でなく、

昔ではソトとされていたであろう人とのつながりがとても強くなったり、

(ただしそれによって人を容易に傷つけることもできるようになったし、

面と向かってはしないことをできるということは、

強くなったのか希薄化したのか、そこのところは言い切れないけれど。)

身近なウチの人との関わりが弱くなったり。

人間関係は広がっているのか狭まっているのかわからないけれど、

このウチ・ソトの感覚というのもだいぶ変わってきているように感じる。

然は然り乍ら(漢字で書くとなんかかっこいい…。)、

閉ざされた社会にいると、息をするのと同じようにあたりまえに感じていることが、

実は全然、当たり前でも常識でも普通でもないということに気がつかない。

そもそも、閉ざされた社会であるということにも気がつかない。

日本にいる外国人から見れば、とても複雑な構造なのだろう。

そして「外人」として「ソト」に置かれた彼らは、

今まで感じたことのない壁を感じ、

疎外感や寂しさを感じているのではないかと、すこし気がかりだ。

日本人でも、得てして自己主張が強くエゴイスティックと言われがちな帰国子女は、

「あの人は、帰国だから…」「外人みたいなものだから…」と、

多少ネガティブな意味合いで評されることが多い。

私たちの築き上げた概念の構図に当てはまらないことへの違和感に、

ソトだから、と簡単に理由をつけて片付けてしまっている。


わたしがパリで暮らし始めたら、きっと、

ソトからウチへの侵入に対して土足で踏み込まれたような心地がしたり、
(でも、嬉しいと感じる気もする。)

堅牢な"Je"に戸惑ったりするのだろう。

その概念の差異は、肌で感じて初めてわかることも多いだろう。

どちらが成熟しているとも、良いも悪いも無いものだから、

受け入れて、良い意味で、諦めよう。

身を投じよう。


今日はちょっと、まじめでした。おしまい。